vol.027 住まいと暮らしの「今と昔」
みんすまスタッフがインタビュー 集合住宅誕生物語 −当時の暮らしに思いをめぐらせながら−

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UR都市機構の 「集合住宅歴史館」を訪ね、日本の集合住宅の歴史を体感して来ました!
日進月歩で進化を続けるマンション。より安全で快適なものに、これからも進化を続けるでしょう。でも、昔はどうだったか、なんて、考えたことはありますか?マンションをはじめとする集合住宅は、あまりにも私たちに身近な存在で、その歴史となると案外知らないもの。そこで今回は、東京都八王子市にあるUR都市機構都市住宅技術研究所内の「集合住宅歴史館」に行ってきました。ここには、集合住宅にまつわる多くの資料が展示されており、日本の集合住宅の歴史を、移築された当時の建物などを通して体感することができます。
日本の集合住宅の黎明期  その時代背景と人びとの暮らし
「集合住宅歴史館」を案内してくださったのは、UR都市機構「都市住宅技術研究所」都市再生調査チームの大木真理子さん。戦前から戦後にかけて、黎明期における日本の集合住宅が、どのように変化していったのか、ご説明いただきました。
大木真理子さん

大木真理子さん

関東大震災(大正12年)後に建設された「同潤会アパート」が、日本の近代集合住宅の先駆けに。
同潤会代官山アパート
代官山アパート(単身者向け)※1
代官山アパート(世帯向け)※2

日本に現在のような集合住宅が誕生したのはいつですか?

長屋のようなものは江戸時代からありましたが、縦方向に積層して住まう集合住宅ができたのは、100年くらい前です。集合住宅の先駆けと言われているのは、明治37(1904)年、現在の丸の内に建てられた「三菱一丁倫敦(ロンドン)6・7号館」です。これは、住宅兼オフィスとして建てられたもので、どちらかというとオフィスとして使われることが多かったようですね。レンガ造りの建物がヨーロッパの街並みを彷彿するということで「一丁倫敦」と呼ばれていました。
集合住宅が日本に普及するきっかけとなったのは、大正12(1923)年に起きた関東大震災です。震災によって木造住宅の多くが倒壊・焼失し、一年経ても1万3,700世帯がバラック生活を送っていました。このため、震災の翌年に、財団法人「同潤会」が震災の復興義捐金をもとに設立され、全体では1万2,000戸、その内の2,800戸分をRC(鉄筋コンクリート)構造の不燃住宅として16カ所で供給しました。「集合住宅歴史館」には、昭和2(1927)年築の、「同潤会代官山アパート」を移築しています。

同潤会アパートには、どういった方が住んでいたのでしょうか?

代官山や青山など山の手に計画された同潤会アパートは、サラリーマン階級への供給を想定して建てられたものですが、家賃が戸建の賃貸住宅より割高だったこともあり、所得の高い世帯や文化人が入居することが多かったようです。
ちなみに、昭和初期には分譲の集合住宅というのは、まだほとんどありませんでした。同潤会アパートも、昭和16年に払い下げされるまではすべて賃貸住宅だったんですよ。

「同潤会代官山アパート」は、どれくらいの規模だったのですか?また、どういった間取りだったのでしょう?

単身者用と世帯用があり、あわせて337戸ありました。単身者用住戸は6畳1間に作り付け寝台という間取りで、トイレや台所は共同でした。
世帯用住戸は2部屋のタイプと3部屋のタイプがあり、土間の台所がありました。当時はまだ食べるところと寝るところの区別が無く、ちゃぶ台を片づけると寝室になるというふうだったのです。また、世帯用住戸には、台所の横に小さい洗面台と、当時はまだ珍しかった、ハイタンク式の和式水洗トイレがありました。浴室はまだ付いていませんでしたけどね。
また、単身者用住戸が廊下にずらりと並んでいたのに対し、世帯用住戸は、階段室型住戸といって、階段室を住戸が挟んだ配置をしていました。
「代官山アパート」の敷地内には、たばこ屋、美容室といった店舗や食堂、共同浴場が付いていました。共用施設が充実しているのが、同潤会アパートの特徴です。「代官山アパート」の食堂の2階には娯楽室もあって、卓球台や囲碁・将棋ができるようになっていたんですよ。共同浴場は、1996年に建て替えられるまで使われていました。また、最上階に洗濯室、屋上に物干し場があり、洗濯スペースが共同になっていました。洗濯中は奥様たちのコミュニケーション・タイムになっていたかもしれませんね。

戦時中の住宅供給組織「住宅営団」

日中戦争が激化する中、大都市近郊は工場労働者が急激に増え、深刻な住宅問題を抱えていました。そこで、国策として住宅供給組織「住宅営団」が昭和16(1941)年に設立され、これにより「同潤会」は住宅営団に事業を吸収されて解散することになります。
しかし、戦況の悪化に伴う物資不足により、当初想定していた数の住戸供給には至りませんでした。そして、終戦後の1946年にはGHQによって解散させられてしまいます。
しかし、住宅営団が行った住宅供給効率化のための施策は、戦後の住宅大量供給のノウハウとして生かされました。

戦後、集合住宅は「食寝分離」と「大量供給」の時代へ。「蓮根団地」(昭和32年)では、ダイニング・キッチンが登場。
蓮根団地※3
蓮根団地

戦後、日本の集合住宅は、どういう経過をたどったのでしょうか?

戦災による、420万戸とも言われる住宅不足は、法整備により本格化した公営住宅の建設だけでは追いつきませんでした。そこで、今のUR都市機構の前身にあたる「日本住宅公団」が昭和30(1955)年に設立されます。日本住宅公団は、大量の住戸を供給するために、様々な工法の模索や設計の標準化、規格部品の開発を行いました。

そういえば、DKという言葉も日本住宅公団が生み出したのでしたね?

その通りです。DK、つまりダイニング・キッチンは、公団がつくった造語なんです。公営の住宅は、「公営住宅51C型」に代表されるような、標準設計という決められた型でつくられました。51C型では、食べるところと寝るところを分けるという「食寝分離」の考え方が盛り込まれ、これは戦後の集合住宅の大きなテーマになります。公団が打ち出したのは51C型の食寝分離をさらに確立した、「2DK55型」というものです。
「集合住宅歴史館」には、その代表として、昭和32(1957)年に建設された「蓮根団地」を移築しています。この住戸は、公団標準設計の2DKで、2寝室と台所兼食事室が設けられています。51C型よりダイニング部分にゆとりをもたせて、家族で団らんできるようになっているのが特徴です。当時は、食卓といえばちゃぶ台が一般的で、テーブルはほとんど販売されていませんでしたから、食事室にははじめからテーブルが備え付けられていたんですよ。
また、ここでは、各住戸に浴槽も付いていました。それまでの公営住宅は、浴室はあっても、浴槽は住む人が購入しなければならなかったので、内風呂が付いたことは公団住宅の付加価値を高めたといわれています。
この時代は、大量供給が求められた時代でしたから、ベランダのフェンスはネットフェンス、物干し金具も鉄筋を曲げただけというように、そのときある材料ですぐにつくるというやり方で、早さと安さが追求されました。

郊外型の「多摩平団地テラスハウス」(昭和33年竣工)が、後に登場するニュータウンの基礎に。

「蓮根団地」ができた翌年に、「多摩平団地テラスハウス」が建てられており、こちらに移築されていますが、テラスハウスとい うのは、どういう集合住宅ですか?

「多摩平団地テラスハウス」は、郊外型住宅として建てられたもので、ここでも、公団の最大の使命であった大量供給を実現するための、さらに合理的で、低コストな工法が模索されています。
テラスハウスとは、2階建の低層住宅で、上下階でひとつの住戸を構成し、それが数戸横につながる形式の集合住宅です。1階は4.5畳の部屋と水回り、2階には6畳と3畳の部屋がありました。洗濯機など家電製品の普及が昭和30年代から始まりますが、テレビもこのころから普及し始めたため、2階の部屋にはTVアンテナ用のスリーブが設けられました。
テラスハウスは、専用庭が付いているのが最大の特徴です。庭はかなり広く、建物面積43m2に対して庭は30m2もありました。庭を介して隣人とコミュニケーションを取ることができ、雨が降ってきたら洗濯物を取り込んであげるといった交流もあったようですよ。

「多摩平団地」は、その後に誕生するニュータウンのはしりだったのでしょうか?

そうですね。「多摩平団地」は小規模でしたが、学校なども設けて街区をつくるニュータウンのはしりになったといえるでしょう。これ以降、広さを求めて郊外へ移り住む人が増えました。

多摩平団地※4
「晴海高層アパート」(昭和33年竣工)には、今のマンションにもつながる画期的な構造が。
晴海高層アパート※5
晴海高層アパート

都市部では、どのような集合住宅がつくられたのでしょうか?

郊外型の「多摩平団地」に対して、都市部では同じ年に「晴海高層アパート」が建設されていて、こちらも移築しています。 「これからは高層住宅も供給しなければならない」と考えて、試験的につくった10階建の建物です。コストを抑えつつ高層化するために、新しい構造駆体を試したり、あらかじめ工場で成形したプレキャスト・コンクリート材を手すりに採用したりしています。
著名な建築家、前川國男さんの設計なので、デザインも凝っている上に、規模可変できる構造になっている点が画期的です。左右と上下3層分、合計6戸を1単位として、コンクリートブロック壁や床を取り除き、規模を変えることができるのです。これは現在のSI住宅※のような、規模可変の考え方を先取りした建物だといるでしょう。ただ、賃貸住宅でしたし、実際には最後まで規模可変は行われず、解体時にはじめて実験的に壁や床の除去が行われたんですが。
各住戸の玄関扉にはシリンダー錠が付けられ、パブリックな空間とプライベートな空間の区別がさらに明確になりました。当時は、まだ電話が各世帯にいき渡っていませんでしたが、このアパートには電話交換手が常駐していて、共用廊下に共用の電話が設置されていました。各住戸には、電話がかかってきたことを知らせるブザーが付いており、それが鳴ると廊下に出て共用電話の受話器を取る仕組みになっていたそうです。

※SI住宅(スケルトン・インフィル住宅:駆体と内装部分を建築の段階から分離する方式で建てられた住宅。駆体に制約されず自由に間取りが変えられる。

50年前に、現在のSI住宅につながる考え方を盛り込んでいたことがすごいですね。こうした様々な試行錯誤の上で日本の集合住宅は進化し、現在のマンションに至っているのですね。

※1:

代官山アパートイメージ(単身) 「代官山アパート」の単身者用住戸は、6畳に作り付け寝台といった間取り。寝台の下は収納になっている。

※2:

代官山アパートイメージ(世帯) 世帯用住戸の6畳の部屋から、土間の台所(左側)と洗面台(右側)を望む。洗面台の奥には和式水洗トイレがある。

※3:

蓮根団地 「蓮根団地」の住戸は2DK。ダイニング・キッチンは板敷きで、テーブルが備え付けられている。

※4:

多摩平団地 1、2階で1つの住戸を形成する。1階には、庭に面して掃き出し窓と勝手口が設けられている。

※5:

晴海高層アパート 非廊下階住戸は、縦長の畳が敷かれた2つの居室の横にダイニングキッチンという間取り。
欄間がガラスになっており、天井を広く明るく見せる効果がある

UR都市機構 都市住宅技術研究所「集合住宅歴史館」

歴史的に価値の高い集合住宅を移築復元するとともに、集合住宅の歴史や変遷を展示公開している施設。研究所の施設見学には年間3,000人ほどの見学者が訪れている。見学は予約制。1年に一度、「特別公開」を催しており、今年は5月25日(金)〜26日(土)を予定。この両日は、予約無しでだれでも自由に見学ができる。

アクセス

JR八王子駅または京王八王子駅より「大和田、東海大学病院経由宇津木台行き」バスで19分、「ケンウッド前」下車

公開日

火、水、木と第2、第4金曜日

公開時間

1:30 p.m. 〜 4:30 p.m.

TEL

042-644-3751

URL

www.ur-net.go.jp/rd/
※見学予約は、電話かホームページにて

UR都市機構「集合住宅歴史館」

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児玉幸久さん プロフィール